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2011/04/03

第17回集い 報告

4月2日(土)テーマは「台湾への誘い~日台の絆を確かめる」、45人が参加しました。

冒頭、石巻の知人から寄せられた311東北大震災による津波及び自衛隊による復旧・支援画像を紹介した後、江上副代表により犠牲者への黙祷を行いました。
続いて、日本を励ます台湾発の多くのメッセージ映像のうち4つが紹介されました。
また、台湾では100億円を超える義捐金が寄せられているこもも報告され、台湾が日本にとってなくてはならない友人であることを、改めて確認しました。

今回のメニューは3つ 
前半、台湾観光協会大阪事務所 からご提供いただいた『台湾ノスタルジア/懐かしい日本に出会う旅』のDVD(台湾交通部観光局09年制作30分)を上映しました。
台湾の建築家が台北賓館、新北投温泉博物館などの日本統治時代の建築物に加え、大渓老街などをマダム楊さんが紹介したもの。
続いて、事務局スタッフ・逢乃俊未知さんが、昨年8月台湾南部を訪れた映像記録「謝々高雄!-ある事務局員の旅の記録-」 を紹介し、台湾への旅情を感じました。

後半は、三重県在住の西田忠幸さんによる「国境の南 もう一つの物語~SAYONALA竹田」と題したお話。
08年、台湾では「海角七号」が大ヒットしたが、このTVドラマの舞台も同じく屏東県で、客家の村にある竹田小学校。
西田さんの義母・水谷ユキさんが夫・政美氏が戦死したことを知らされた当時は28歳。ともに暮らしたのはたった2年。「もし、自分が帰還できないときでも結婚せず、自分を待っていてほしい」との夫の言葉を守り、単身で2人の子供を育てられた。
時は経ち、昭和46年10月三重県知事から正式に戦病死地点(旧地名)の通知を受け、その1973部隊の野戦病院が竹田小学校となっていること、また池上一郎博士に看取られたことが分かった。
昭和57年、ユキさんは西田さんご夫妻とともに当地を訪問し、夫の魂を弔うとともに校庭の土を持ち帰り墓に納めた。それ以降、同小学校を何度も訪問し、図書等の購入費に充てるため寄付され続けたことから「ユキ文庫」も設立され、当校との交流が深まった。
竹田村長・傅民雄氏は、水谷ユキさんを村民栄誉第一号として承認するとともに、「さよなら!竹田」という歌を環境音楽家・馬修連氏のCDに収録したとのこと。
これらのことは台湾の新聞等で報道され、さらに「さようなら!竹田」として東台伝藩股分有限公司により20話のドラマとして制作されることになったことが紹介された。

また、会場ではこの歌とユキさんが学校で詩吟を披露された音声に加え3月25日に竹田小学校で開催された震災への義捐金を拠出する子供たちの姿が竹田送暖傳愛日本の映像(Media playerで再生可能)により紹介された。
(お話される西田忠幸さん)
※参加者アンケートより
・地震の動画は私もいくつか見ました。台湾の方の日本に対する思いに感動です。逢乃さんの動画も前に訪問した場所がいくつも出てきて懐かしかったです。西田さんの話も素晴らしく、また機会があればもっとお聞きしたいです。(30代男性)
・東日本大震災に対して台湾の方たちの温かいメッセージ、多額の義捐金、竹田小学校の子供達が寄付をしてくれる様子を見てとても嬉しい気持ちになりました。本当に謝謝です。あと、台湾に根付く日本のノスタルジーを感じられて良かったと思います。(20代男性)
・今後、台湾鉄道一周の旅、先住民族について取り上げてほしい。(女性)
・統治初期における日本の方針及び予算等について光と影を。また大東亜戦争と台湾人兵士について取り上げてほしい。(60代男性)
・充実した時間を過ごした。深謝。屏東県というのは風の都か砂の都か?一度行ってみたい。裏方の方々のご努力に対してお礼を申し上げます。(70代男性)
・いつも有意義な内容で満足しています。小生も西田氏のお説の通り、台湾に出遭わなければ、人生観は変わったものだったと痛感しています。今回の震災復興にも李登輝総統のリネンを参考にします。(70代男性)
 

1 件のコメント:

トニー さんのコメント...

応援メッセージ、観光協会ビデオ、逢乃さんの高雄の映像、西田さんのお話と、凄く密度が
濃かった感じです!!

謝長廷さんの竹田の子守唄、
さよなら竹田の歌が、印象に残りました。